☆*写真好きなHSPの日常**♪

HSP(ハイリーセンシティブパーソン)という独特な気質を持って生まれた、写真大好きなOLが綴る日々です♡

頑張らなくても何も持っていなくても

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 まずはひとつでもいいから、頑張らなくても、ただ受容される「見返りのない関係性」をもってほしい。それがつくれる大人は必ずどこかにいるから。

 これは極めて重要なことだと思う。

それでいうと、わたしにとってのそういう存在は旦那さん。

身近にそんな人がいてくれることが、本当にありがたいことだと感謝してもしきれない気持ちでいっぱいになる。

自己肯定感とか、自分を認めてあげるとか、結局は他力本願じゃ絶対できなくて、自分で切り拓いていくしかないのだと強く感じているのだけれど、こういう人の存在は自己肯定感を高めていく中で、少なからず力となってくれる存在であることは間違いないとも思う。

 

わたしはこんな人間

『きゅうちゃんが何も持っていなくても僕は好きだよ』と何千回言われても、

『きゅうちゃんはいてくれるだけで価値があるし僕は嬉しい』と何万回言われても、わたしは信じられないし、その度に聞くと思う。

「ホンマにホンマにホンマにホンマ???」って。

「そんなこと言っても、どうせ明るくて気が利いて何かに落ち込んでいたら明るく冗談でも言って励ましてくれる奥さんがいいに決まってる!」と思ってしまう。

なかなか重症。

 

でも、こうして頑張らなくてもただ受容してくれる大人は必ずいるというのは本当にその通りだと思う。

ただそういう存在からの承認欲求を得て自分を高めていくのでは全くダメなのだと最近強く感じていたのです。

だから、《結局は他力本願じゃ絶対できなくて、自分で切り拓いていくしかないのだと強く感じている》と思っているのだけれど、やっぱり自分じゃ限界があるのならば、その人の力を借りながら、自分を認めていくことは悪いことじゃないのかもしれないと少し思うようにもなりました。

それでもいいのですかな?? 自分でもわからないけれど。

まだまだ自分を好きになるまでの道のりは長く、随分と模索しています…。

自分のこと、丸ごと愛してあげたい。

ただそれだけなのにどうしてこうも難しいのかな。。

 

小さい頃の出来事

おとなしい自分じゃいけないと思うひとつの要因として、過去の経験もあるのかなと思っています。

小学生の頃、仲の良い5,6人くらいのグループで、わたしだけ遊びに誘ってもらえなかったことがあって、後日、違う友達が教えてくれたんです。

「○○ちゃん(リーダーっぽい子)が『きゅうちゃんはおとなしくておっても楽しくないから誘わん』って言ってた」って。

それを聞いて悲しく思ったんだけど、「そりゃそーだわな」と思った自分も確かにいて。

こんな自分といても楽しくないよな、そーだよねって、思った。

なんだかこの出来事は忘れられなくて。

おとなしい自分は誰からも必要とされないんだって認識した一件でもある。

幼い頃にそんな思いが根付いてしまった。

当時担任だった先生にも、おとなしいことに対して叱られる出来事もあって。

先生の言っていることは間違っていなかったけれど、もっと違う伝え方ってもんがあるんじゃないかって思った。

ただただ傷ついたし、人格を全否定されたような気持ちになって悲しかった。

先生はただわたしにもっと成長してほしかったから言ってくれたのだとは思う。

積極的に手を挙げたり、発言したりといった類のことはできない子どもだったから。

だけど、未だに納得できない出来事。

『こんなにおとなしい自分は絶対的にダメなんだ』っていうことをあの頃刷り込まれたのかもしれないと思う。

 

優等生

わたしは、すごく優等生でイイ子なタイプでした。

宿題なんて絶対忘れないし、親から「ちゃんとしなさい」なんて言われたこともない。

言われる前に宿題なんてさっさと終わらしてしまうような子どもだったから。

真面目で謙虚でおとなしくて、勉強もスポーツも難なくこなす。そんな感じ。

だから、大人から叱られるようなことって本当になかったから、この時先生に叱られたことはかなり衝撃的でした。

その出来事も、内容も。。 

誰かに迷惑をかけたわけでもないし、ものすごく悪いことをしたわけでもないのに、なんでこんなに責められて人格否定されなきゃならないんだよって思った。

先生もわたしを傷つけたくて言ったのではない。

学校生活の中でのよくある指導の一環だった。

他の大人が見ていたとしても、行き過ぎた指導だと感じる人もいないと思う。

人格否定と言うのも言い過ぎだとは思う。

けれど、当の本人がそう感じたのだから仕方ない。

納得できない思いが渦巻いたけれど、もちろん、そんな主張ができる子どもではなかった。

それが出来るのであればおとなしい子であるわけがなかった。

納得いかない思いもすべて自分の中に閉じ込めた。

そうすることしかできない子どもでした。

あの頃、もっともっと、こんな自分の個性を認めて「それでもいいんだよ」って大きくまわりの大人が言ってくれていたら、何か違ってたのかもしれないなと思ったりもする。

まぁ大人からしてみればそれはそれで難しいことですよね。 

どんな育ち方をしたら、自己肯定感が持てる人間になれるのかな?って、これから人の親になる立場としては、切実に疑問。

 

自分を愛するということに関して言えば

川口春奈ちゃんのブログで、こんなことが綴られていました。

人見知りだし臆病者で傷付くのが怖い私は
いつも決めつけて自分自身すらも苦しくしてしまっている。
子どものとき、まだ何にも知らないときは
怖いものもなくて何も考えず
無垢な素直な気持ちで誰にでもどこへでも
飛び込んでいけたのに
いつからか臆病になってしまっているなと、
オトナになるとはこういうことなのかな。
 
でも出来れば
子どものときのような純粋で固定概念にとらわれないようなフラットでクリーンな気持ちで
いつどんな時も自分にも相手にも向き合っていきたいと思います。
いつも自分のことよりも誰かのことを
考えて考えて考えて大切に大切に大切に
してきたけど
相手よりもまずは自分自身を大切に愛してあげようと思います。
そうじゃなきゃ、誰かを護ることなんて
出来っこないと思うのです。

こんなにかわいくてキレイで、女優としても売れてたくさんの人から必要とされている彼女でさえも、何かしらに悩みもがき苦しみ生きている。

芸能人だからこそ、そうなのかもしれないけれど。

芸能人であるがゆえ、自分と向き合わなくちゃいけないことは普通の人よりも多いと思う。

その中で色々なことを思うのだろうな。

ただ、こんなに素敵な人でも自分のことを認めてあげられなかったりするのだなって。

みんなもがいているのだなと少し救われた気持ちになれたのでした。

 

小林麻耶さんもタクシーの運転手さんから言われたそう。

『誰かを幸せにしたければまず自分が幸せにならなくちゃいけないよ』って。

本当にその通り。

大切な人を守りたいから、自分自身を認めて好きになって大切な人たちを守りたい。

 

photo by Q in 豊島